【訂正】「天地明察」北極出地経路


「天地明察」北極出地経路 2012/6/12Link
に誤りがあったので訂正する。
ただし、三厩には三回来ているが、三回とも龍飛崎には行っていないらしい。<——誤謬
「伊能忠敬測量隊」のルート解説は、あくまで旅程であり、測量場所を示しているわけではないらしい。宿泊地に連泊し、そこを拠点に周辺を測量した場合、必ずしもルートとは一致しない。

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画像をクリックすると拡大します。

The Library of Congress( アメリカ議会図書館 )Link の伊能大図[Japan, Hokkaido to KyushuLink ]を確認したら、竜飛崎はきちんと記入されている。ただし、測線(赤線)が上宇鉄村から先にはない。グリッドはある。距離計測はせず、地形の確認を行っただけか?
38 Mutsu Miumaya Tappimisaki JusangataLink
この画像データは巨大なので、竜飛ー三厩付近を切り出してみた。

三厩には宿場、天測地点、港湾ふねの合印が確認できる。

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41 Mutsu Gainanbunouchi Sai OhatakeLink このデータも巨大なので、切り出してみた。大間周辺である。グリッドにアラビア数字が・・・!グリッドは後世の書き込みか?

 

— posted by nitobe at 08:10 pm   commentComment [0] 

無術≠病題

「無術すなわち病題」などというたわけたことをしゃぁしゃぁと言う輩が湧きだし始めている。
これは、「天地明察」というより「コミック版天地明察」の所為だな。頼むよ講談社。何とかしてよ。

 

— posted by nitobe at 10:23 pm   commentComment [0] 

「天地明察」北極出地経路


概ね「冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?……」 2010-09-16Link 佐藤賢一先生指摘済み
なのだが、文庫出版後、新たに新渡戸が発見した箇所もあります。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P197L4より引用
 目的地は永代島にある”深川の八幡様”こと富岡八幡宮である。徳川将軍家は源氏
の氏神たる八幡大神を崇拝しており、中でも相模発祥のこの神宮は江戸最大の規模を
誇る。公務によって長旅に赴く者たちは大抵ここで加護を祈念した。
まんまと信じちゃったぞ。
よもや、建部、伊藤、渋川のブロンズ像が建つことはあるまいなぁ。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P245L16より引用
 観測隊の一行は東海道での天測を終え、山陽道に入り、四国へ渡った。舞子浜から
淡路島の岩屋に渡り、さらに福良から鳴門に渡っている。そこから撫養へ行き、南へ
下って室戸に入った。北上して塩飽の小島に渡り、そこから山陽道へ戻ってを目指
した。

何故に山陰道の「」を目指す?訳がわからない。九州に渡るなら赤間関(下関)を目指すだろう。何のことはないこのあと赤間関(下関)に到着している。君が目指した「」はどうした?

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P261L14より引用
 北端にいた。
 奥州津軽の最先端、三厩である。
『四十一度十五分四十六秒』

北端にいた。」:誤謬
    本州最北端は下北半島の大間崎である。北緯41度32分47秒 東経140度54分45秒
奥州津軽の最先端、三厩である。」:地名なのか地域名称なのかあいまい
    奥州の最先端は下北半島の大間崎である。
    奥州津軽の先端は三厩(地区)である。現在の三厩本町は、北緯41度11分49秒 東経140度25分48秒。
    奥州津軽の先端は龍飛崎である。三厩(地区)の龍浜にあるので、三厩という表現も間違いではないが、非常に曖昧。北緯41度15分40秒 東経140度20分34秒

こんな中途半端なところで北端の感慨に浸れるなんて、なんておめでたい連中だろう。

====以下「伊能忠敬測量隊」初版P89L4より引用
急ぎに急いで奥州街道を北上し、五月一〇日、津軽半島先端の三厩に到着する。
ここから箱館までは海上約七〇キロメートル、津軽藩が御役船を運航し上下する
幕府役人などを運んでいた。ところが風向きが悪くて船が出ず、一八日まで八日間風待ちして、奥州街道
で稼いだ日程を無駄にしてしまう。

伊能忠敬測量隊は、三厩で蝦夷地への御役船に乗船するために逗留しているのだ。測量はしなかったとは言わないが、少なくとも最終目的地ではなかった。本州最北端で天測したいのなら大間崎。津軽半島の北端で天測したいのなら龍飛崎。北極出地が任務ならばこの何れかを押さえておかねばなるまい。事実「伊能忠敬測量隊」は下北半島・大間崎もきちんと測量している。ただし、三厩には三回来ているが、三回とも龍飛崎には行っていないらしい。従って、「三厩」は、三厩港近辺と理解してよさそうだ。一方、「天地明察」の値は、『四十一度十五分四十六秒』。なーんだ、龍飛崎じゃないか。厳密にいうと龍飛崎北の海中か、北東に位置する「帯島」となる。それにしても正確だなぁ。現代の値と6秒しか違わない。緯度1秒の長さを約30m(北緯35度)とすると、約180mの誤差だ。

大きな地図で見るLink
「津軽海峡冬景色」を信じちゃいけない。「♪御覧あれが龍飛岬北のはずれと~」は大嘘です。

一応ルートをまとめておこう。
    永代島 富岡八幡
東海道
    小田原       三十五度十八分四十四秒
   【小田原駅                    北緯35度15分23秒 東経139度9分17.5秒】

    不明        三十五度八分四十五秒

    浜松

    浜名湖

    御油

    熱田

    山田
山陽道
    舞子浜

淡路島 岩屋

    福良

四国  鳴門

    撫養

    室戸

    塩飽の小島
山陽道
    萩を目指す

    赤間関(下関)
九州
    赤間関(下関)
山陰道
房総
    銚子犬吠埼     三十五度四十二分二十七秒  【北緯35度42分28秒 東経140度52分10秒】
奥州道
    会津

    加賀

    三厩        四十一度十五分四十六秒
   【三厩村役場                    北緯41度11分49.3秒 東経140度25分47.6秒 】
   【三厩駅                      北緯41度11分7.33秒 東経140度26分39.80秒 】
   【龍飛崎                      北緯41度15分40秒  東経140度20分34秒   】

    白河

会津の好待遇に対比した加賀の仕打ちということだろうが、挿入する場所が不適切だ。166x年に藩主何某が観測隊を歓待しても、140年後の180x年の伊能忠敬は地名さえ知ることすらできなかった。さすがフィクション。過去に遡っても未来を変えることはできないのだね。・・・・・ここにこのエピソードを入れた意味が全く見いだせない。「伊能忠敬測量隊」ではルート解説とは別に、一章をさいて加賀藩のエピソードを記述している。冲方先生、余程印象に残ったのだろうが、奥州道で加賀の話は違和感がある。

全般的に「伊能忠敬測量隊」のルートと酷似しているのだが、そもそも主要幹線道が限定されるため、こんな感じになっちゃうのはしょうがないのかな?ちっちゃい事は気にするな。そ~れ、わかちこわかちこ。の人はどこへ行っちゃったんだろう?

「天地明察」の『第三章北極出地』で北極出地の値が明記されているところは4か所。最初の2か所は東海道からずいぶん内陸に入ったところだ。緯度1分の長さを約1.8km(北緯35度)とすると、約5km強内陸ということになる。ご苦労様です。不慣れなので誤差が多いということかな?2か所目は、春海の予想がまぐれ当たりするところだが、どこかはさっぱりわからない。ま、どこでもいいんだが。一方最後の2か所は恐ろしいほど現代の値に近い。銚子1秒、龍飛6秒。緯度1秒の長さを約30m(北緯35度)とすると、約30メートル、約180メートルの誤差だ。ま、Wikipediaあたりからの引き写しなのだろうけど。現代の値を引き写してはまずかったかもしれない。

保井(渋川)春海の「天文分野之圖」延寳5[1677] 【さくっと翻刻してみた。乞誤謬指摘。新渡戸】
周天三百六十五度五百八十九分度之百四十五半【云々】
とある。周天を360分割ではなく、365.2470…分割するらしい。これで象限儀を作ったら・・・どうなるか、みんなわかるよね。

詳しいことは、日本天文学史研究、和算研究の専門家にお任せしましょう。

以下全てメタメタさん
「江戸時代には角度という概念がなかった」という和算史の常識 2011-08-29 01:54:21Link
「角度」の成長物語,江戸時代の,そして人類の。 2011-08-26Link
『天地明察』の「天度」 2011-08-11Link

「伊能日本実測小図」文化1 [1804] [写]の右下の表 【さくっと翻刻してみた。乞誤謬指摘。新渡戸】
                    周天為三百      一間為六尺
地名            北極出地度 六十度一度 道路里程 一町為六十間
                    為六十分       一里為三十六町
        深川黒江町
                          九里  七町  六間
武蔵国橘樹郡  保土ヶ谷宿 三十五度二十七分                 【保土ヶ谷駅 座標: 北緯35度26分48.2秒 東経139度35分58.6秒】
                          四里二十六町四十五間
相模国陶綾郡  大磯宿   三十五度一十八分半                【大磯駅   座標: 北緯35度18分40.4秒 東経139度18分48.6秒】 
                          七里  八町四十五間 
同  足柄下郡 小田原本町 三十五度十五分                  【小田原駅  座標: 北緯35度15分23秒 東経139度9分17.5秒】
【以下略】
注目!1:「北極出地度 周天為三百六十度一度為六十分」とある。周天360分割だ!
注目!2:「大磯宿 三十五度一十八分半」とある。精度0.5分だ!
      あたりまえだ。中象限儀の精度は1分だ。目測で「半」はつけられるようだ。
注目!3:測定点が現在の駅の場所ではないのは明らかなのだが・・・合ってる。すげー。
注目!4:深川黒江町の北極出地度が無いのは何故?伊能先生、基準点は最初に測るでしょう普通。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P200L3より引用
 一行は規則正しい歩調で進んだ。日に五里から七里を歩き通すことが前提の旅であ
る。
嘘つき。二十里以上歩いてる。保土ヶ谷まででも九里。そうやって従業員を騙してこき使うのだね?

 


— posted by nitobe at 03:30 pm   commentComment [2] 

アメンバー限定公開


図説 伊能忠敬の地図をよむ — 日 記, June 05, 2012Link
伊能忠敬測量隊 — 日 記, June 05, 2012Link

の 「冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?…… (佐藤賢一先生)2010-09-16」 に、リンクが設定されていないことにお気づきだったろうか? これは、この記事が、佐藤先生の承認を受けないと読めない「アメンバー」設定になっているからだ。佐藤先生が、何故この記事を非公開にしたのか?真意のほどは定かではない。

表題だけで、当方も調査し、その後、承認を受けることにした。先ほど、承認されたので、早速拝見させていただいた。論旨は当方と概ね同じだが、問題にしている場所の相違も多数ある。気になる方は、佐藤先生の承認を受けて確認してください。

冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?…… 2010-09-16Link
<測量法について Ⅰ>   梵天、割円八線対数表、彎窠羅針
<測量法について Ⅱ>   火鉢、赤い毛氈、手明かり
<測量旅行出発>      富岡八幡宮
<測量ルートの類似 Ⅰ>  浜松から気賀街道(姫街道)を測って御油に出る
<測量ルートの類似 Ⅱ>  舞子浜、岩屋、福良、鳴門、撫養、室戸、塩飽諸島、赤間関(下関)
              測量隊の隊長(建部/伊能)が共に赤間関で体調を崩す
<測量ルートの類似 Ⅲ>  銚子犬吠埼、地球は丸い
<測量中に受けた妨害>   加賀藩

まだあった流用箇所:『天地明察』 2011-02-16Link
◎庭の木を伐る
◎「士気凛然、勇気百倍」

注:何度も言います。このリンクはアメンバー限定公開です。閲覧には佐藤先生の承認が必要です。

 

— posted by nitobe at 09:35 pm   commentComment [0] 

 

冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬測量隊』の流用 #2


====以下「伊能忠敬測量隊」初版P104L13より引用
いろいろの経緯があったが、第二次測量では相模、伊豆沿岸から房総半島を経て下北半
島まで本州東海岸を測ることになる。お手当は少し上がって一日一〇匁になっただけで
あったが、宿泊と人足の提供について、道中奉行・勘定奉行から沿道の村々に先触れが出された。勘定奉
行ら五人が印を押し、人足二人、馬一匹、長持一棹の持ち人足(四人)を、お定めの賃銭を受取って提供
するよう命じている。さらに追って書きで「この触れは昼夜を限らず、早々継ぎ送り、請け書を添えて最
後の村から最寄の幕府代官に返すように」と指示され、村々へは幕府代官が伝達した。代官は添え状をつ
け「お先触れが出ているから、刻付で早々継ぎ送るように」と求めている(『測量日記』)。刻付の廻状は、
たとえ深夜でも受信すれば、受信時刻を記し、自分用の写しをとって、すぐ人足に持たせて次の村に送ら
なければならない。

====以下「伊能忠敬の地図をよむ」改訂増補版初版P58UL1より引用
第2次測量———本州東岸への旅

 第1次測量で実績を認められた伊能隊の待     【UL7】
遇は少しだけ昇格した。前回の旅行で忠敬は、
自分の「先触れ」に幕府・勘定奉行の部下の
勘定衆(旗本)からもらった「添え触れ」の
写しをつけて、宿泊と運搬用人馬の提供を求
めていた。今回は勘定奉行から直接、幕府代
官経由で沿道に対して先触れが出された。手
当も第1次測量の1日銀7.5匁から10匁に昇格     【ML1】
した。
 先触れには「この触れは昼夜を限らず急い
で継ぎ送り、請書を添えて最終の村から最寄
りの幕府代官に返せ」と書かれていた。受け
取った村は、昼夜を限らず深夜でも内容を写
しとり、お請けする旨を記入して、ただちに
次の村に送らなければならない。非常に強い
指示である。お金よりもこの通達の威力のほ
うが大きかった。この命令により、村々では
村役人が村境まで出迎えて案内をした。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P201L11より引用
 観測隊が訪れる土地には先触れが出され、幕府の今回の事業を援けるため、各藩と
村々が、昼夜を問わず伝書を書き写して道中の各宿営地へと派遣される。
 まがりなりにも幕命を受けての行動であるので、村役人の他、町奉行の者や、藩が
派遣した附き廻り役もやって来て、ともに宿営地へ随伴した。

こりゃ、受け取った方が迷惑だわ。先触れ。
「観測隊が~」・・・それにしても、日本語が変だ。と思うのは私だけだろうか?何が「派遣される」のか、私にはさっぱりわからない。加齢による認識力低下でなければよいのだが・・・。

====以下「伊能忠敬測量隊」初版P145L8より引用
・・例をあげると、測量中の私的荷物の中で一番扱いが面倒だったのは大刀である。あまり離れるわけに
いかないし、一人に何本も持たせるわけにもいかなかった。測量風景を描いた図では、測量班のすぐ近く
に村人足が一本ずつ刀を持ってしたがっている絵が出てくる。

====以下文庫本「天地明察」(上)初版P200L7より引用
 腰の二刀のうち、大刀中間の一人に預け、脇差しだけでいられたのがせめてもの
救いである。

ただでさえ荷物が多いのに中間大刀を持たせるとは何様だ?中象限儀でも馬二頭なのに、大象限儀を運んでるんだぞ!それにしても、140年経つと、皆、春海の様な腑抜けた武士に成り下がってしまうのか?嘆かわしい。

6/16追記:
「伊能忠敬測量隊」が刀を持たなかったのは、羅針盤への影響を考慮したためだったらしい。
====以下「伊能忠敬測量隊」初版P141L13より引用
 また、どのくらい効き目があったかわからないが、
羅針を見る者は大刀を身につけず、竹光の小刀だけ
を帯するようにした。

 

— posted by nitobe at 09:28 pm   commentComment [0] 

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