概ね「
冲方丁『天地明察』は『伊能忠敬の地図をよむ』の流用か?……」 2010-09-16 佐藤賢一先生指摘済み
なのだが、文庫出版後、新たに新渡戸が発見した箇所もあります。
====以下文庫本「天地明察」(上)初版P197L4より引用
目的地は永代島にある”深川の八幡様”こと富岡八幡宮である。徳川将軍家は源氏
の氏神たる八幡大神を崇拝しており、中でも相模発祥のこの神宮は江戸最大の規模を
誇る。公務によって長旅に赴く者たちは大抵ここで加護を祈念した。
まんまと信じちゃったぞ。
よもや、建部、伊藤、渋川のブロンズ像が建つことはあるまいなぁ。
====以下文庫本「天地明察」(上)初版P245L16より引用
観測隊の一行は東海道での天測を終え、山陽道に入り、四国へ渡った。舞子浜から
淡路島の岩屋に渡り、さらに福良から鳴門に渡っている。そこから撫養へ行き、南へ
下って室戸に入った。北上して塩飽の小島に渡り、そこから山陽道へ戻って萩を目指
した。
何故に山陰道の「
萩」を目指す?訳がわからない。九州に渡るなら
赤間関(下関)を目指すだろう。何のことはないこのあと
赤間関(下関)に到着している。君が目指した「
萩」はどうした?
====以下文庫本「天地明察」(上)初版P261L14より引用
北端にいた。
奥州津軽の最先端、三厩である。
『四十一度十五分四十六秒』
「
北端にいた。」:
誤謬
本州最北端は下北半島の
大間崎である。北緯41度32分47秒 東経140度54分45秒
「
奥州津軽の最先端、三厩である。」:地名なのか地域名称なのか
あいまい
奥州の最先端は下北半島の
大間崎である。
奥州津軽の先端は
三厩(地区)である。現在の三厩本町は、北緯41度11分49秒 東経140度25分48秒。
奥州津軽の
最先端は
龍飛崎である。
三厩(地区)の龍浜にあるので、
三厩という表現も間違いではないが、非常に曖昧。北緯41度15分40秒 東経140度20分34秒
こんな中途半端なところで
最北端の感慨に浸れるなんて、なんておめでたい連中だろう。
====以下「伊能忠敬測量隊」初版P89L4より引用
急ぎに急いで奥州街道を北上し、五月一〇日、津軽半島先端の三厩に到着する。
ここから箱館までは海上約七〇キロメートル、津軽藩が御役船を運航し上下する
幕府役人などを運んでいた。ところが風向きが悪くて船が出ず、一八日まで八日間風待ちして、奥州街道
で稼いだ日程を無駄にしてしまう。
伊能忠敬測量隊は、
三厩で蝦夷地への御役船に乗船するために逗留しているのだ。測量はしなかったとは言わないが、少なくとも最終目的地ではなかった。本州最北端で天測したいのなら
大間崎。津軽半島の北端で天測したいのなら
龍飛崎。北極出地が任務ならばこの何れかを押さえておかねばなるまい。事実「伊能忠敬測量隊」は下北半島・大間崎もきちんと測量している。
ただし、三厩には三回来ているが、三回とも龍飛崎には行っていないらしい。従って、「三厩」は、三厩港近辺と理解してよさそうだ。一方、「天地明察」の値は、『四十一度十五分四十六秒』。なーんだ、
龍飛崎じゃないか。厳密にいうと
龍飛崎北の海中か、北東に位置する「
帯島」となる。それにしても正確だなぁ。現代の値と6秒しか違わない。緯度1秒の長さを約30m(北緯35度)とすると、約180mの誤差だ。
大きな地図で見る
「津軽海峡冬景色」を信じちゃいけない。「♪御覧あれが龍飛岬北のはずれと~」は
大嘘です。
一応ルートをまとめておこう。
永代島 富岡八幡
東海道
小田原 三十五度十八分四十四秒
【小田原駅 北緯35度15分23秒 東経139度9分17.5秒】
不明 三十五度八分四十五秒
浜松
浜名湖
御油
熱田
山田
山陽道
舞子浜
淡路島 岩屋
福良
四国 鳴門
撫養
室戸
塩飽の小島
山陽道
萩を目指す
赤間関(下関)
九州
赤間関(下関)
山陰道
房総
銚子犬吠埼 三十五度四十二分二十七秒 【北緯35度42分28秒 東経140度52分10秒】
奥州道
会津
加賀
三厩 四十一度十五分四十六秒
【三厩村役場 北緯41度11分49.3秒 東経140度25分47.6秒 】
【三厩駅 北緯41度11分7.33秒 東経140度26分39.80秒 】
【龍飛崎 北緯41度15分40秒 東経140度20分34秒 】
白河
会津の好待遇に対比した加賀の仕打ちということだろうが、挿入する場所が不適切だ。166x年に藩主何某が観測隊を歓待しても、140年後の180x年の伊能忠敬は地名さえ知ることすらできなかった。さすがフィクション。過去に遡っても未来を変えることはできないのだね。・・・・・ここにこのエピソードを入れた意味が全く見いだせない。「伊能忠敬測量隊」ではルート解説とは別に、一章をさいて加賀藩のエピソードを記述している。冲方先生、余程印象に残ったのだろうが、奥州道で加賀の話は違和感がある。
全般的に
「伊能忠敬測量隊」のルートと酷似しているのだが、そもそも主要幹線道が限定されるため、こんな感じになっちゃうのはしょうがないのかな?ちっちゃい事は気にするな。
そ~れ、わかちこわかちこ。の人はどこへ行っちゃったんだろう?
「天地明察」の『第三章北極出地』で北極出地の値が明記されているところは4か所。最初の2か所は東海道からずいぶん内陸に入ったところだ。緯度1分の長さを約1.8km(北緯35度)とすると、約5km強内陸ということになる。ご苦労様です。不慣れなので誤差が多いということかな?2か所目は、春海の予想がまぐれ当たりするところだが、どこかはさっぱりわからない。ま、どこでもいいんだが。一方最後の2か所は恐ろしいほど現代の値に近い。銚子1秒、龍飛6秒。緯度1秒の長さを約30m(北緯35度)とすると、約30メートル、約180メートルの誤差だ。ま、Wikipediaあたりからの引き写しなのだろうけど。現代の値を引き写してはまずかったかもしれない。
保井(渋川)春海の「天文分野之圖」延寳5[1677] 【さくっと翻刻してみた。乞誤謬指摘。新渡戸】
周天三百六十五度五百八十九分度之百四十五半【云々】
とある。周天を360分割ではなく、365.2470…分割するらしい。これで象限儀を作ったら・・・どうなるか、みんなわかるよね。
詳しいことは、日本天文学史研究、和算研究の専門家にお任せしましょう。
以下全てメタメタさん
「江戸時代には角度という概念がなかった」という和算史の常識 2011-08-29 01:54:21
「角度」の成長物語,江戸時代の,そして人類の。 2011-08-26
『天地明察』の「天度」 2011-08-11
「伊能日本実測小図」文化1 [1804] [写]の右下の表 【さくっと翻刻してみた。乞誤謬指摘。新渡戸】
周天為三百 一間為六尺
地名 北極出地度 六十度一度 道路里程 一町為六十間
為六十分 一里為三十六町
深川黒江町
九里 七町 六間
武蔵国橘樹郡 保土ヶ谷宿 三十五度二十七分 【保土ヶ谷駅 座標: 北緯35度26分48.2秒 東経139度35分58.6秒】
四里二十六町四十五間
相模国陶綾郡 大磯宿 三十五度一十八分半 【大磯駅 座標: 北緯35度18分40.4秒 東経139度18分48.6秒】
七里 八町四十五間
同 足柄下郡 小田原本町 三十五度十五分 【小田原駅 座標: 北緯35度15分23秒 東経139度9分17.5秒】
【以下略】
注目!1:「北極出地度 周天為三百六十度一度為六十分」とある。周天360分割だ!
注目!2:「大磯宿 三十五度一十八分半」とある。精度0.5分だ!
あたりまえだ。中象限儀の精度は1分だ。目測で「半」はつけられるようだ。
注目!3:測定点が現在の駅の場所ではないのは明らかなのだが・・・合ってる。すげー。
注目!4:深川黒江町の北極出地度が無いのは何故?伊能先生、基準点は最初に測るでしょう普通。
====以下文庫本「天地明察」(上)初版P200L3より引用
一行は規則正しい歩調で進んだ。日に五里から七里を歩き通すことが前提の旅であ
る。
嘘つき。
二十里以上歩いてる。保土ヶ谷まででも
九里。そうやって従業員を騙してこき使うのだね?
間違いだらけの天地明察
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